定型化された配慮

 ネガティブな書き方をしたが、お互いに相手の心情を汲み取り、それに配慮しながら生活や仕事をする日本のやり方は素晴らしいと思う。しかし、礼儀、行間の読み取り、阿吽、言い回し、配慮……といったこれらのことは、実行には大変なエネルギーを消耗する。毎回そんなことはやっていられないので、配慮も定型化し、「これ言っとけば日本的にオッケー」みたいなものが飛び交うようになる。

 個人的に嫌いな定型メッセージのひとつに「無理しないでください」というのがある。次のような状況を想定してほしい。

 チームは一週間後にマスターアップを控えている。そんな中で、チームのメンバーの1人が、体調不良でぶったおれた。そこで、あなたは倒れた彼のぶんの仕事もすべてこなすことになった。完璧にはこなせない。しかし完成のためにはやむをえない。当然眠ることはできず、三日は徹夜することになる。

 そんな中で、チームのメンバーの1人が終電で帰る前に声をかけてきた。
「無理しないでください」
 と。

 どうだろう、こんなシチュエーション。

 ……個人個人、色んな受け止め方があると思うが、僕の反応としては「はあ!?」である。

 この状況では無理しないと完成しない。チームの目標は指定期日までに目標を達成することであり、全員 or 特定の誰かが無理しないと終わらないという事実がある。だとすれば、声をかけるなら「無理してください」「頑張ってください」だろう。嬉しいのは「俺も一緒にやります」だけど。

 なぜここで「無理しないでください」「ありがとう」という会話が成り立つのかといえば、定型だからだと思う。言葉の中身に意味はなく、定型をこなすことに意味がある。「落ち葉の降り積もる頃、ますますご健勝の事とお喜び申し上げます」という一文を文章の頭にコピー&ペーストするのと同じで、そこに感情はない。コピペした人は、落ち葉の降り積もる頃、ますますご健勝の事とお喜び申し上げたいとは絶対思ってない。もうここは書く方も読む方も分かってる。シャンシャンだ。書かなきゃ逆に無礼なんだから。

 とはいえども、一部の人は誰にでも出来るフォロー仕事を抱えて徹夜してる最中に、こんなこと言われたらカチギレすると思う。

 「無理をしないでください」

 ……状況によっては(例えば試験版の内部〆切だとか)、〆切を延ばしたり、目標を下げたりして、そこで無理をせずに、猶予をつけるという選択肢もとれるかもしれない。だから「無理しないでください」という言葉もあながち意味がないわけでもない。しかし「猶予をつける」には関係各所/各社/各者に伝達して調整して交渉する必要がある。それを誰がやるの? 「無理をしないためには誰が無理をするの?」 ここまで考えるのが真心というものだろう。

 「無理をしないための調整には結局俺が無理をしなきゃいけないじゃんか!」という立場の人も少なくないと思う。

 こういう場面で、やんない人はやる人に対してどうしても声をかけたいなら、「すみません、無理をしてください。三日徹夜してください」と言うべきだと思う。少なくとも、そこに「俺は一切手伝いませんし、他と掛け合ったりもしません。なんのお力にもなれませんので、あなたの状況は一切変化しません」という情報はキッチリ含めてほしい。「無理しないでください」と言われたら何かやってくれんのかとか思うじゃないか。

 チームの目標に対して的確なことをいうことは結構大事だ。そのうえで本当に無理するのか、どこまで無理をするのかは当人が判断すればいい。

 今在籍している会社はそのへんは凄く出来ていて、過去在籍した会社やチームのなにが良くなかったのか、ということが過去との対比のなかでだんだん分かって来た気がする。