DiGRA J 公開講座 不可能を可能にするゲームデザイン

 DiGRA公開講座で、コナミの小島監督の講演「不可能を可能にするゲームデザイン」を聴いてきました。これ、注意書きに、

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 とあるのですが、要するにこれ CEDEC宮本茂さんの講演と同じ扱いにしてくださいという解釈でいいんでしょうか。サマリが出せるということであれば、遠藤さん御自ら書かれるような気がします。(モンテカルロのときはそうだった。でもしんどいとか書かれてたような……)

 ここでは当たり障りのない話(小島さんがよそでも言ってる話)を書きますが、

  • メタルギアはハードウェアの制約からデザインされた。
  • 「できない」ことを「できる」に変えるのがゲーム開発者の仕事。
  • 「できない」ことをアイデアで回避する企画主導のゲームデザインと、「できない」ことを技術力で正面突破する技術者主導のゲームデザインが存在する


 といった話だった。以下感想。

 最初のメタルギアを開発したときのくだりで、小島さんが聴衆に必死にMSXのスペックについて解説していたくだりが、ちょっと面白かった。要はスプライトの水平表示制約や、スプライトを重ねた多色表現でさらにその制約が狭まるという話なんだけど、学生さんもたくさん聴きにきているので、ハードウェア制約を理解してない可能性があるわけですよ、カルチャーギャップで。そこを丁寧に解説されていたのに泣けた。

 全体的に興味深かったのは、 CAPCOM の稲船さんと同様「自分が作りたいと思うものを作れ」「不可能(矛盾)を克服するから価値が出る」と仰られていた点。これは有名なゲーム製作者に共通したポリシーだと思うし、現場の下っ端もそう思ってる人は多いと思うので、偉い人に言われると勇気が出て嬉しい。

 それと同時に、欧米は技術者が技術力で不可能を突破するが、日本はそれ(技術力)がないからアイデアで突破するしかないと指摘されていた点は技術者として痛い気持ちになった。ただ、確かに、欧米の技術者(というか研究者だよね;;)と張り合えるものは僕は持ってない。

 帰りのトイレの中でふっと思ったのだが、僕も自分のやりたいことをやって、やりたいことをやるからそれを自分の体温にして燃えるタチです。これはもうほとんどの人がそではないかと思う。しぶしぶゲーム会社に入った人もアニメ会社に入った人もいないでしょう? やりたいことをやるからここにいて、やりたいことをやってるから朝起きれるんですよ。昨日は駄目だったけど。

 で、海外の技術者のように、たとえば「地勢エンジン」を自分の血肉にして、体温にして、燃えられますか?というと、僕には無理だと思う。好きなことをやるやつが一番強いのに、頭悪い上に、(それなりにハマるにしても)人生かけて愛せないんだから、これは勝負にならない。

 野球は見るし黒田のファンだしドジャースには勝ってほしいけど、カープの応援以上に燃えるものはない。これはメジャーリーグドジャースを自分の体温として取り込めないから。ドジャースの連敗で飯が喉をとおらなかったり、人生に何も希望も見いだせなかったり、死にたくなったりしないもん。

 つまり、「地勢エンジン」くらいまで絞り込まれると、それは僕にとってのドジャースなんですよ。中に黒田のように大好きなもの(シームレスロードとか)もあるけど、全体は愛せない。まあでも海外だとシームレスロードひとつに技術者あててそうだな(汗

 小島さんは海外との技術者は教育の差*1ととらえられていた。それを「好きなことをやるやつが強い」という理論に当てはめると、頭の良さがどうこう以前に「超ニッチなことを愛してる人間の人口」自体が少ない。その嗜好性(と性癖)を目覚めさせる切っ掛けが教育制度の中にないんだと思う。これが悪いことなのか良いことなのかは分からない。

 かつては技術者もゲームデザイナー同様にハードの制限を逆手にとって、いかに制御するかに力点を置いてきたし、それが「好き」だった。今は比較的まともな技術が強力なハードウェアの上で動く。今世代機はまだ「好きなこと」で戦えると思うが、次世代機では新しい愛の形を見つけないといけないだろう。

 新技術を「思いつく」ことで負けてるのに、使うことから目を切ったら、逆襲の一手は打てない。とにかく、新ミドルウェアや、有名どころだけでも目新しい論文からは目を切らないようにしよう。

*1:海外は飛び級などで天才をどんどん上へあげて、それに破格の対応を与えて企業が雇うが、日本は平等感や均等感を重視する